『「スモールビジネス」成功のセオリー90!』より

わずか3人でも全米を相手にしたビジネスができる。それにはシステムをうまく作ることが大事

 アメリカは大変広大な土地です。日本国そのものがカリフォルニア州一州にすっぽり入ってしまうのですから、その全体の大きさがわかると思います。「そのように大きなアメリカで全米展開のビジネスを」というのが、アメリカに来て大志を抱く大方のビジネスマンの夢です。しかし、どんなに燃えるような欲望があってもそれを実現するための具体的な戦略がなくては実現困難になります。全米展開には数多くの人々を巻き込みます。そのため、誰がからんでも、まったく同じことをするだけで同じような結果が出せるシステムがなければなりません。
 ここで、前にも少し出てきましたが、私がビジネスをどのようにして始めたか、また、どのようにして全米展開を実現したかをお話ししたいと思います。日本全国スケールのビジネスを展開したいという方にも参考になると思います。
 1976年4月10日に日本を出発し、同じ日にロスに到着した私は、4月12日に市役所に出かけ、まずはビジネス免許を取得し、ソーシャルセキュリティオフィスに出かけて、カードを申請しました。その足で、ロスのセントラル図書館に出かけ、調べものをしました。翌13日はDMV(自動車の登録や運転免許試験を実施しているところ)に出かけ、その場でドライバー・マニュアルを1時間みっちり勉強し筆記試験に合格しました。午後は、実地試験を受けるために私の前にならんでいた人に20ドル払って彼の車を借り、実地試験にチャレンジし、見事合格。おかげさまで2日でビジネス開始の準備を終わらせることができました。後日販売免許も取得し、これですべてのビジネスを堂々と繰り広げる体制が整いました。残念ながら、現在の移民法は大幅に修正されているため、このような訳にはいかなくなっています。
 さて、ビジネスは、卸業、小売業、コンサルタントの3つの免許を申請しました。小さな人間が全米を相手にするためには、卸しかありませんので、これを本職と決め、小売を生活費捻出のためと位置づけました。あとは、アメリカに来る誰もがやるように、いろいろなものを探してきては売って歩きました。フリーマーケットにも何回か出店しましたが、時間の無駄と判断し、次に輸入商や販売代理店から買って小売店に売る中間業者の仕事を開始しました。
このときはお客を酒屋と園芸用品店に絞りこみ、ロスにある店をかたっぱしから訪問しました。おかげで日銭が入り、顧客も増えましたが、これでは全米展開は無理と判断。そこで、本格的に全米展開に向く商品探しに着手しました。希望商品は、アメリカ人にとってはとてもユニークでありながら、彼らの日常生活に入り込めること、付加価値の大きいこと、保守点検サービスが不要なこと、出荷に適していること、そして、何といっても日本製であることでした。日本からたくさん買って日本をもうけさせたいという気持ちが強かったからです。当時は、まだソニーとダットサンが日本製として愛用されていただけで、日本の電化製品も出まわっていませんでした。
 いろいろな物を売り買いしているうちに、私のことを人づてに聞いたある商社が、ある商品を持ち込みました。「日本のお客様に頼まれたものですが、こんなものでも売れますか」と聞かれました。変わった商品ですが、売れるかどうかは売ってみなければまったくわかりません。ただ、金額的には、私の取扱商品のなかではダントツに高いものでした。とにかく頼まれたら一応引き受けるのが私の主義です。最初の1週間で、卸売でわずか12個しか売れませんでした。各小売店は卸価格と希望小売価格のあまりの高さにびっくり。仕方がないので、1個2個単位で卸しました。3週間たって1グロス売れ、3ヶ月目に40ダースが動くようになりました。
この間、いろいろなところに売りこみ、商品の可能性を試しているうちに、あるマーケットで確かな手応えを感じ、さっそく私はこれで勝負しようと決め、商社に総代理店契約希望を申し入れ、年間10万ドルの買い付け保証を入れました。1978年のことです。月間買い付け高が2千ドル程度の頃の話です。「これは良い商品だ」などと感じたことは一度もない商品に、私は自分をかけることにしました。
 いよいよこの商品を全米に出さなければなりません。あてはまったくありませんでした。とにかく知恵を絞り、そのマーケティング方法を考えることにしました。まずは、手応えを感じた業界の団体に連絡し、彼らのトレードショーのスケジュールを入手し、さっそく、一番手近かのショーに参加することにしました。このため、今度はショーでプローモートするための作戦を練らなければなりません。
この結果、販売代理店制を採用することにしました。販売代理店の条件としては、卸業者として何らかの実績があるローカルの小さな卸で、ハングリー精神旺盛で、顧客数は最低でも百件を有し、取り扱い商品数が少なく、うちの専属にできる可能性を持ち、商品引渡し時払い取引で1取引単位に5千ドルの現金を払える業者ということに決めました。価格構成は、販売代理店価格、通常卸価格、小売価格の三段階制にし、その業界の小売店で最大限頼める小売価格を決定し、印刷物にしました。
 次に、ショーでのデモンストレーション方法を決め、さっそく毎日練習しました。取った方法は、日本人としての特徴を出すために、寅さんタイプの叩き売り方法で、ブースにござを敷き雰囲気作りをして、あとは目いっぱい商品を試してもらうためにサンプルをたくさん並べ、自由に試せるようにしました。デモのポイントを「とにかく楽しく面白く」に絞り、この商品を扱えばもうかりそうだという印象を与えることにしました。目的は、販売代理店を1日1件以上獲得することです。各トレードショーで面白がっているアメリカ人相手に冗談を言いながら、ショーを楽しんでいるうちに、3ヶ月で30社の代理店を獲得しました。
以降、私はその業界のいろいろな州のトレードショーに出展し、私の獲得した販売代理店のためにたくさんの小売店をピックアップしてあげることに専念しました。おかげでアッという間に全米をカバーすることが実現できました。途中、私のことがアメリカ各地の新聞やテレビで紹介され、それらも販売代理店の効果的な応援になりました。
 私がこのシステム作りで特に気を配ったのは、この商品がその業界にとってはまったく新しい商品のため、紹介の段階でどう第一印象を持たせるか、すなわちインパクトを強くするかということでした。そこでまずブランド名を決定しました。次に私が中間業者としてビジネス展開中に困ったように、小売店はすぐ商品の出元にコンタクトし、代理店をスキップしようとするので、この弊害をなくすために、私は自分の商品から私の名前と連絡先をすべて消し、小売店が直接私にコンタクトできないようにしました。これにより、各代理店に、彼らの州の小売店は彼らを通じない限り商品を入手できないシステムであることを示し、彼らに活躍のチャンスを保証しました。
また、私のところに直接注文してきた小売店はすべてそれぞれ担当の代理店に渡していったので、すごくフレンドリーなビジネス関係の確立に成功しました。たとえ相手が大手チェーンストアであっても通常の卸価格を提示し、けっして販売代理店向け価格は提示せず、私から連絡を受けた代理店は、さっそくその買い付け担当者に連絡し、実にうまい連携プレーを実現することができました。
 今考えると、うまくいった理由は次のようなものがあげられます。
1.商品選定がうまくいったこと。すなわち、付加価値を目いっぱいつけられる商品であったこと  
2.新しい商品紹介にあたりブランド名を押していったこと
3.価格構成がうまくいったこと。すなわち、十分な内部留保ができたため、いろいろ具体的な代理店サポートを実行できたこと  
4.代理店をもうけさせるシステム作りに成功したこと。すなわち、彼らが自分でその可能性を検討し、自ら燃えることのできるシステムであったこと  
5.代理店の選択がうまくいったこと。すなわち、大金をはたいても、これにかけてみたいという上昇志向のハングリーな小さな専門代理店集団作りに成功したこと
6.私が約束したことを約束通り実行したこと
7.後方補給を切らさなかったこと

 以上の仕事は、動き出すまでは私が1人で行い、忙しくなってからは妻に手伝ってもらい、全米展開がどんどん動き出してから、セールスマネージャーを1人雇い入れ、それでも忙しかったので、オフィスの留守番として、私が頼んでいる公認会計士の旦那さんをアルバイトにお願いすることになりましたが、これだけの仕事をスタートさせ、動かすのに要した人間はわずか3人だったことをお伝えしておきます。
 小さいからこそできた大きな仕事。いつの時代でも、がんばる人間にチャンスがあるものです。大きな、大きな夢。それがうまくいったらいったいあなたには何が起きるのでしょうか。失敗を考える暇があったら、ぜひうまくいった場合のことに思いをはせてください。あなたにもできます。必ずできます。きっとできます。もしあなたがあなたの持てるすべてを賭けたならば。
 後日談。私の商品が話題になって3ヶ月も経たないうちに、目ざとい人が柳の木の下の2匹目のどじょうを手にすべく、オーストラリアから類似品を輸入し、価格を1ドルアップし、個人レベルの代理店を駆使して、宣伝をぼんぼん打ってマーケットに参入してきました。さらにそれから3ヶ月も経たないうちに、私の商品にうりふたつの香港製も登場。ほかにもこの手の商品があちらこちらに登場してきて、私の商品は比べる相手が出てきたおかげで売上に一層の拍車がかかることになりました。
私の商品はパイオニアとしての強みをフルに発揮し、マーケットの広がりの中で圧倒的シェアを確保し続けることができました。これは、私がなぜその商品が売れたかをしっかり把握していたこと、オリジナルとしての強みを十分発揮したこと、そしてなによりも、この商品に対して単なるビジネス感覚以上の思い入れを持てたということにつきます。これは、消費者からの山ほどの感謝の手紙が私をそうさせたわけです。今日、この商品のコンセプトは一般市場でも普及し、どこにでもその影響を見ることができるようになりました。それを目にするたびに、スペシャルマーケットでがんばったあの当時のことが懐かしく思い出されます。

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